森忠商店の歴史
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森忠商店の歴史
【1】先祖は亀田氏一族
戦国時代の雄将亀田大隅の子孫である亀田氏は明応年間加賀国森下郷を所領し後に一向一揆の際にも土豪としてその勢威をふるいました。
この森下村の森下城主であった亀田氏の一族が森忠の先祖と伝えられています。天正年間、加賀に侵攻した柴田勝家により亀田一族は滅ぼされましたが森忠の先祖は生き残り江戸時代初期、森下村より森下町金屋町(現東山町)に移り住み屋号を森下屋と称しました。
万治年間に死去した初代からの系図
【2】江戸時代末期
七代目から九代まで忠三郎と名乗り森下屋忠三郎、略して森忠と称しました。これが店名の始まりです。
この七代目忠三郎は文化5年4月金沢城が焼失した折、「御造営方主付肝煎役」を命ぜられ御造営に尽力し大功あり、と認められ、町奉行所より感状を与えられました。さらに二人扶持を賜り、年頭御目見、御通城の許可及び諸役御免の栄誉を受けました。
(幸蔵とは七代忠三郎のことです)
八代忠三郎は同じく横目肝煎を命じられその傍ら天保13年漆商を開業し森忠通玄堂と称し藩御細工所へ御用漆を納めました。
文政8年橋場町かけ作りの地所を買い入れここに移りました。
【3】明治時代から大正
九代目忠三郎の時、明治維新となり藩での漆の商いが難しくなると 現在の尾張町へ移転し、製薬、製油、酒造の三業を始めることになります。
このうち製薬は家伝薬「牛酪大補丹」「安神丸」「神薬五黄丹」等の製薬に力を入れましたが諸事情により断念。又酒造の方は弟忠次郎に譲り森下屋の分家としました。よって森忠本家は製油業に専念することになります。
近隣の農家が栽培して地主が搾油した菜種油を買い集め土蔵に大桶を並べてこの中に貯え、精製して缶に詰めて商品化しました。これを食用、灯明用として販売しました。精製した菜種油は次第に需要を広げ東北地方にまで出荷するようになりました。さらにこの頃流行したランプに使用するため石油(石炭油)も扱うようにもなりました。
↑明治39年1月25日の北国新聞広告欄
十代目なって菜種油、機械油を鉄道局に納めるようになると急速に事業が拡大します。油以外にも日露戦争の頃には西洋ローソクの製造やその頃珍しかったホルマリン石鹸を扱う事もありました。県下に織物業が盛んになると、今度は繊維油剤潤滑油、さらに蝋、膠、ふのり、工業薬品を取り扱う事となり、これに家庭用雑貨類の取り扱いも数多く加わります。大正八年、市内電車開通の為店舗の改装が出来上がり現在の建物となりましたが、「茂利菊香油」「千菊香油」の製造のほか東洋燐寸株式社、ベルベット石鹸(のちの日本油脂)、神戸ボイル(後の神東塗料)つちや足袋株式会社(後の月星靴)、新津精油所(後の丸新精油所)大正製油会社などの代理店もなし当時(大正末期)店員15名、自転車8台、自動三輪も使用するようになりました。
【4】昭和
昭和12年支那事変勃発によって世の中は一変、店員は次々の応召し取り扱い品は統制強化の為次第に入手困難となり昭和14年9月、ついに開店休業の状態になります。終戦を迎え21年6月よりわずかながら配給の食用油で営業を再開します。混乱期を乗り切って昭和25年3月株式会社森忠商店を登記、11代目が社長となります。販路は石川県内を中心に富山県の一部とし新たに家庭塗料卸を始めます。また木工用を中心に建築用塗料、接着剤・溶剤といった業務用製品もそろえて昭和の高度成長期を迎えます。